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新しい一歩を踏み始めてから私は、毎日発見や気づきを感じていました。それはふとした思いつきやひらめきのような形で訪れるのですが、何かが分かったと思うと同時に、自分はもともとそれを知っていたと感じる、という不思議な感覚です。

英語に「blessed」という表現があります。神の恵みを受けた、というような意味です。

ある日、いつものようにコーヒーを買おうとカフェの列に並んでいたとき、「この建物の中で一番『blessed』なのは(カフェでで働く)彼らだ」と私は思いました。誰かを見るときに、単に人としてのその人を見ているからです。

彼らは、相手が部長なのか秘書なのか、どの等級の職員なのか、誰が誰の上なのか下なのか、知らないし見ていません。彼らが見ているのは、その人がどのコーヒーを好むのか、あるいは紅茶を飲む人なのか、礼儀正しいか、横柄か、微笑んでいるか、何か浮かない表情であるか、といったことです。

この想いがふと頭に浮かんだとき、私は泣きたい気持ちになりました。

彼らはいつも楽しそうに仕事をしていました。すべての人に同様に接し、競いも争いもせず、相手が欲するものを差し出すとという行為に徹する、それは、単純明快に幸せに通ずるものです。そのときの私には、それがはっきりと見えるようになっていました。

私が職場を去る前に、この気持ちを彼らに話せたらとも思いました。「あなたたちが一番すごいと思う」と言えたらいいなと思ったのです。結局それは、しないままになったのですが。

このことを考えるとき、私は穏やかな気持ちになることができます。自分がどういう人間でありたいのか、自分でわかるという気持ちになるからです。何かを達成しようとするのではなく、日々の暮らしの中でどうありたいか、そのときそのとき接する人に対してどう心を込めるのかを大切にしたいと思うようになったのです。

国際機関で働く経験は、私にとって貴重でかけがえのないものでした。様々な国籍の人たちと出会い、違った文化や習慣に触れることができたという最も大きな収穫のほかに、やりたいことをやってみたという深い満足感があります。やってみてやめることは、やらずに諦めることとは大きな違いがあるからです。

そこから離れようという気持ちになって、今後誰かが国連で働いているという理由だけで羨ましいと思うことは絶対にないと思えます。多大な努力と試行錯誤を通して計り知れない学びを得た後、この段階で、自分の幸せを求めていいのだと思うようになりました。無理をするのではなく自然に生きて、自分がまず幸せになることをスタートと考えた私は、その通りの道を歩み始めました。

 

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